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オーストラリアの歴史

オーストラリアはまだ建国されてから数百年という比較的歴史の短い国ですが、建国前にも様々な歴史がありました。このページでは、オーストラリア建国前から現在に至るまでの歴史を簡単に説明していきます。

 

〜アボリジニ祖先の到来〜

 

オーストラリア大陸には、約4万年も前からアボリジニの祖先が住んでいたと言われています。その時期に、現在のアボリジニの祖先がニューギニア方面からオーストラリアに渡ってきました。

また、当時は海面が今よりも約200mほど低く、ニューギニアとオーストラリア大陸が陸続きだったといわれています。その後、約2万年ほど前から徐々に海面が上昇し、アジア大陸との連絡は立たれてしまいました。

そのため、オーストラリア大陸の外では、約1万年前から農耕文化が生まれましたが、オーストラリア大陸は完全に隔絶され、狩猟・最終による生活が続きました。

 

〜先住民アボリジニの時代〜

 

オーストラリア大陸に取り残されたアボリジニは、狩猟、採集による生活を続け静かな日々を送っていましたが、その後ニューギニアやインドネシアとの交易が始まり、さらに中国との交易も始まりました。この頃から、徐々にオーストラリアの存在が大陸外の国に広まっていきました。


〜ヨーロッパ人との接触〜

 

14世紀になると、ヨーロッパ人が初めてオーストラリアに上陸することになります。

最初に訪れたのはポルトガル人で、香木などの価値のあるものを求めて上陸しましたが、何も発見できずに、重要な土地として認識されるずに月日が流れていきました。

16世紀になると、東方貿易に力を入れていたオランダがオーストラリアを本格的な調査をし始めました。当時のオランダは、調査総監のタスマンという人物をオーストラリアに二度派遣し、彼はタスマニア島を発見し、調査の末にニュージーランドにも到達しました。

このときオランダは、オーストラリアを「新オランダ」と名づけ、タスマニア島を当時の東インド会社総督の名をとって「ヴァン・ディメンズランド」と名づけましたという歴史があります。

またこの時も、本格的な調査をしたにも関わらず、香木などの目当てのものが見つからなかったので、オーストラリア大陸を価値のある場所だとは考られてはいませんでした。

そのため、その後約100年間は、ヨーロッパからオーストラリアに探検隊は派遣されることはなかったのです。


〜イギリスによる植民地化〜

 

18世紀に入ると、有名なイギリスの探検家キャプテン・クックがシドニー郊外に上陸し、東海岸を調査しました。

ちなみに、この上陸が行われたのは1770年で、1785年には、その一帯を「ニュー・サウス・ウェールズ」と名づけて英国王室による領有化宣言をしました。

そしてその翌年には、イギリスはオーストラリア大陸の植民地化に力を入れ始めオーストラリア東海岸にNSW植民地の成立を決めて、元海軍将校であったフィリップが初代総督となったのです。


〜本格的な植民地化〜

 

1788年1月26日(現在の建国記念日、オーストラリアン・デイとなっています)には、
初代総督であるアーサー・フィリップ率いる船団がシドニー湾に上陸しました。その時の人数は流刑囚780人を含む約1200人だと言われています。

また、その1200人のうち、780人の流刑囚以外は、海兵隊とその家族700人でした。この時点で、先住民のアボリジニ達は、英国王室領の不法滞在者となり、奴隷にされ、虐げられるようになりました。

その後、19世紀半ばまでに、およそ15万人以上の囚人が大陸に送り込まれることとなったのです。

植民地化の当初は、食糧難や天然痘の蔓延、治安の悪化など問題も多く、なかなか植民地の建設が思うように行きませんでしたが、90年代に入ると炭鉱の発見や羊毛の生産などで開拓が急速に加速していきました。

そして、順調な植民地開拓に伴い、徐々に移民の数も増えていきました。また、オーストラリア大陸の各地方から入植、開拓が進み1829年に正式に全オーストラリアが
英国の領有と宣言されることとなりました。


〜ゴールドラッシュと白豪主義〜

 

大まかに1800年代がゴールドラッシュの時期だといわれています。

元々ゴールドラッシュとは、19世紀半ばのアメリカ、カリフォルニア州で発見された新しい金産地に人が殺到することを指しますが、オーストラリアにもその時期に金鉱を求めて大量の人が移動してきました。

オーストラリアにも人が集まってきたのには、いくつか理由があり、ニューサウスウェールズの地形がカリフォルニアに似ていたことや、ニューサウスウェールズ南西で砂金を発見した人物がいたこと、また、その時ビクトリア植民地が、金鉱発見者には報酬金を提示したことなどが挙げられます。また、実際にビクトリアで大きな金脈が発見されたのも大きな歴史的な事実です。

そして、19世紀の初頭まではオーストラリアの入国に対して人種による規制は設けられていませんでしたが、ゴールドラッシュによって大量に流れ込んできた低賃金で働く非ヨーロッパ系の移民に対して政府は入国規制を設けるようになりました。

そうして、非ヨーロッパ系移民よりも白人を優先する政策がとられて、オーストラリアの白豪主義が生まれたのです。

 


〜ヨーロッパ連邦の成立〜

 

1850年には、植民地政府法という法律が制定され、オーストラリア各植民地はその植民地ごとの憲法を制定できるようになりました。各植民地ごとに植民地憲法が制定され、植民地でありながら自治政府や内閣制度をもつ近代政治システムが整いました。

この当時、植民地ごとに憲法を持つという意味は、本国のイギリスがそれぞれを統括するという形ではなく、植民地自体が自治を行うという意味でもありました。

しかしながらそうした植民地による自治は、いわばオーストラリア全土で郵便や輸送、鉄道を始めとする様々なシステムが全て異なるという意味で不都合であり、不便でもありました。

そうした経緯で、連邦政府の樹立を進めようという動きが出てきたのです。そしてついに、1901年にニュージーランドを覗く6植民地がオーストラリア連邦として成立し、英国の自治領となりました。

 

〜第一次世界大戦〜

 

英国の自治領となったオーストラリア連邦は、1914年の第一次世界大戦に英国と共に参戦をしドイツと戦うこととなります。

このとき、オーストラリアは太平洋地域に存在するドイツ領を占領するという役割を担いました。このときに結成されたのがニュージーランド軍との連合部隊「ANZAC軍」です。

この戦争によるオーストラリアが失ったものは大きかったですが、これをきっかけにオーストラリアは国際連盟への加入が認められました。今でも4月25日は、案ザックデイと呼ばれる休日となっています。また、この日にはパレードが行われたり、現在の自由のために犠牲になった尊い人達を追悼する儀式などが各都市で行われます。

 

〜第二次世界大戦〜

 

1941年に第二次世界大戦が勃発し、オーストラリアは、アメリカ、イギリス側の連合軍として参戦しました。

このころから、日本軍によるアジア侵略やインドネシアの独立運動などがきっかけで
アジアへの注目が高まりました。

そのため、オーストラリアは白豪主義による国家運営の限界を感じ始め、少しずつ移民政策が多人種、他民族に開かれていくようになります。

 

〜多民族国家へ〜

 

大戦後のオーストラリアは、各国の戦後復興のためにボーキサイトなどの資源の需要が高まり、好景気となりました。

その時、オーストラリアは強力な経済や十分な国防能力を実現するためには、多くの人口が必要であると考え大量移民計画が実施されました。当初は、イギリスなどのヨーロッパからの移民を期待していましたが、それだけでは人口が足りず、非英語系のヨーロッパ系、イタリア系、ギリシア系、中東の移民を受け入れることになりました。

また、アジア系の移民は、教育、専門技術などの高い資格を持っている人の移住を認めたのが最初となっています。こうした移民計画は、政府が狙った通りにオーストラリアの生産性を高まることとなりました。そのため、この頃からオーストラリアの経済力も向上していきました。

そして、同時に国民の生活水準も向上し、中東や東ヨーロッパからの移民も増加s、さらなる多民族国家へに発展したのです。

1967年には、国民投票によって先住民アボリジニの公民権が認められ、2000年のオリンピックにはアボリジニの女子陸上選手が選ばれオーストラリアが先住民族との共生する国ということをアピールしました。

こうして、オーストラリアは現在、法による平等、機会均等の保証、母国語や文化の維持を認めるという多民族国家になっています。

 

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